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江戸幕府の外交ルート

江戸幕府の外交ルートの嘘

海外情報に疎くなかった徳川幕府

江戸時代、徳川幕府の外交政策の基本は「鎖国」であった。

鎖国という語はドイツ人医師ケンペルが著者『日本誌』で、「日本は長崎を通してオランダのみと交渉を持ち、国を閉ざしている」などと書き記し、元オランダ通詞(通訳)志筑忠雄が同書を邦訳する際に、『鎖国論』と題したことに由来する。

しかし、近年の研究の進展により、徳川幕府の外交ルートは長崎以外にもあったことがわかってきた。

まず、朝鮮半島を統治する李氏朝鮮とは、対馬藩宗氏が正式に外交を結んでいた。

朝鮮王朝との外交は対馬藩宗氏を通じて行われ、朝鮮からは将軍の代替わりのたびに「通信使」と呼ばれる使節が派遣されてきた。

琉球王国(現在の沖縄県)とは、薩摩藩(島津氏)による間接統治による外交ルートを確保していた。

琉球王国は当時の中国の清朝と外交関係を結んでいたから、このルートを通じて中国大陸の情報も仕入れることができた。

更に、蝦夷地(現在の北海道)からは、江戸時代を通して蝦夷地の支配を任されていた藩である松前氏とアイヌによる交易を通じて、中国大陸の北方の情報も入ってきた。

つまり、江戸時代の外交ルートは、幕府が長崎奉公を通じて直轄するオランダルートが1本、その他に間接的なルート(アイヌー松前氏、琉球ー島津氏、朝鮮ー宗氏)が3本。

なんと計4本もあったのだ。