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巌流島と武蔵

巌流島と武蔵の嘘

遅参説は決闘から約150年後に発生

不世出の剣豪・宮本武蔵。

現代でも有名なこのカリスマ剣術家だが、彼の生涯のハイライトといえば、慶長17年(1612年)4月13日に行われたとされる巌流・佐々木小次郎との果たし合いである。

関門海峡(山口県下関市と福岡県北九州市を結ぶ海峡)に浮かぶ巌流島(正式名称は「舟島」)で行われたこの決闘に関しては、長く「武蔵は決闘の刻限に遅れてやってきた」との説がまことしやかに唱えられていた。

遅参することで小次郎を焦らし、心理的動揺を誘った兵法うんぬんの解説がつくことも多い。

遅参説が有名なのは、吉川秀治の『宮本武蔵』の影響による。

同小説は江戸時代後期に成立した『二天記』に依拠し、『二天記』は宝暦5年(1755年)成立の『武公伝』によっている。

つまり、遅参説は決闘から150年近く経過した後に突然飛び出してきた説であり、信憑性が薄いのである。

最も信頼できる史料は北九州市にある小倉碑文である。

武蔵の養子・伊織が養父の没後9年目に建てたものであり、巌流島の決闘に関しては「両雄同時に相会し」と記し、武蔵が木刀の一撃で小次郎を仕留めた旨が記されている。

遅れてきたという記述はない。

なお、小次郎を倒した木刀を模して武蔵が自作した木刀が熊本の松井文庫に現存している。

武蔵は約束の時刻をきちんと守って勝った。

遅参説は後世のフィクションなのである。